空@遊ぶ本屋稼業のブログ

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なぜ人は「認知症」になるのか?


平成を回顧し、令和を迎えて思いだされるのは、「認知症」のことだ。平成の元号が発表された時分、私ら家族は、祖母の認知症で、大きな負担を抱えていた。


祖母は、元気な頃は、中条きよしファンで、萬屋錦之介の『破れ傘刀舟悪人狩り』や杉良太郎の『遠山の金さん』なども楽しみによく見ていた。また、お腹が痛いとき、頭が痛いときなど、手かざしで手当てをしてくれた。


しかし、80歳を超え、徐々に、認知症があらわれ、奇行が多くなった。


まだ、夕陽が残っているにもかかわらず雨戸を閉めてしまう、お母さん〜と泣き出す、同居している家族も、自分の娘である叔母のこともわからなくなる、など。


まだ、20過ぎの若者にとって、認知症という現象は、全く不可解だった。


前置きが長くなった。


#和器出版 から発行された最新刊、石原克己先生の『いのちの仕組み』には、認知症について、以下のような捉え方がある。


【なぜ人は認知症になるのか?

 この問いに西洋医学は、脳になんらかの障害が起きたために認知機能が変調をきたすからだ、と答えます。脳の障害は、事故や脳梗塞など他の病いが引き金になったり、脳そのものの萎縮などによって起こる。起きた障害は、取り除ける場合は取り除き、萎縮などの進行も止められるなら止めましょう、というのが西洋医学的な治療の考え方です。

これは固体場・液体場に限定した因果関係の読み解きである、ということはこれまでもお話しした通りですから、それはそれとして、私が「認知症の人は必要があってそうしているんですよ」とみなさんにお話しするとき、私の脳裏に浮かんでいるのは、実は、そこではない場所 から眺めるときに見えてくる景色なのです。

そこは、みなさん一人ひとりが生まれたときからいのちの仕組みの根源に輝いている「魂」が宿る場所といったらいいでしょうか。】

【私の父は現役時代、教師だったと先にお話ししましたが、職業と認知症の間にはやわらかな相関関係を見てとることができる、という説があることは、介護の仕事をされている方はよくご存知でしょう。

晩年になって認知症を患った方の現役時代の職業を調べてみると、学校の教師や公務員のように、社会的なルールを遵守することをつねに求められる職業の方が少なくない、そういわれています。

もちろん、教師や公務員を務めた方の中にも生涯認知力が衰えない方はたくさんいます。逆に、他の職業に就いていた方の中にも認知症になる方は当然いますから、職業と認知症の相関関係はあくまで一つの傾向であるということ、そのことを踏まえたうえで思うことは、父も教師をしていた頃、本当は他にやりたいこともあったのかもしれない。ときには羽目を外したいと思ったかもしれない。そうはいっても、教師である以上、なかなかそうもいかなかったんだろう、理性で魂の声を抑えこんでおかなくてはいけない時間が長かったのだろうということです。

さらにいえば、両親に甘えたい気持ちを抑えていい自分を演じてきたという父の幼少時の体験も重なっているのだと思います。

息子の私が父の両親の代わりとなり、父のトラウマ解消の役割をしたというわけです。】


【いまとなっては、私の胸のうちで空想するしかないことですが、「社会的なルールを遵守することをつねに求められる職業」に就いている方の多くはおそらく自分がやりたいことよりも、やるべきことを優先して来られたのではないかなと思います。

こういうことをやりたい、やってみたいという思いは、その人が本来持っている魂からの声ともいえるものだと思いますが、それは社会性をつかさどる理性の声と、往々にしてぶつかります。

ぶつかってもその思いを素直に出せる人もいますが、「社会的なルールを遵守することをつねに求められる職業」を選んだ方にはそれはなかなかむずかしいことでもあるでしょう。

結果として、魂からの声は理性の声という鎧をまといそれに従うのだけれども、晩年になり理性の縛りが弱くなると、そこまでためこまれたエネルギーが社会性の枠を超えてあふれてくるようになる ー。】

【人間のいのちの源にある魂というのは、太陽の光のようなものかもしれません。太陽の光が燦々と降り注ぐことによって、地球上のすべてのいのちが息づくように、人間も本来持つ魂の力が十分に発揮されてこそ、精神も感情も活き活きと働くものなのだーそんなふうに私は思うのですが、この場所に立って辺りの景色に目をやれば、

認知症というのも、魂の声を長年抑え込んで生きてこざるを得なかった人が、晩年になってようやくその魂の声を解き放つことができるようになった、その魂の声なのかもしれないなあ、としみじみ思えてくるのです。

認知症からのメッセージは、宇宙の根本から私たちのいのちが預かった魂の物語物語でもあるのかもしれません。】

いのちの仕組み──病むことも生きること。
いのちの仕組み──病むことも生きること。
和器出版
2019-03-29

この一冊で「病い」と「医療」に対する貴方の常識がかわります!
いのちの仕組み
著者 石原克己
四六判
並製
271頁
1,500円+税
2019年3月刊
ISBN 987-4-908830-15-0


この本を読んで、驚愕だった。
この本に、平成の最後ではなく昭和の最後の頃に出会っていたなら、
この言葉にもっと早く出会えていたならば、
私も祖母にもっと優しくできたのでは・・・。


認知症が、魂の全体の過程で、「必要があるからあらわれている」という認識をもってすれば、祖母は、幼児退行ではなく、意識進化を体験していたのかもしれない。


あれから、30年を過ぎて、認知症が個人的・家族的な事柄ではなく、社会的な事柄となりつつある昨今、この病気観、医療観が一人でも多くの人に届き、認識が共有されることを心より願っている。

祖父たちの思い出と和合の時



私は、母方の祖父に、愛情を注いでもらった記憶がいっぱいだ。祖父は、大正の生まれで、私の幼い時分は、出版社の経理の仕事をしていた。


祖父にとって私は初孫だったからだろう、祖父と共に共有した時間の密度は、孫の中では私が最も多い。祖父は、英語はもちろん、ロシア語にも堪能だった。戦争体験を通じて取得することになったのだ。


祖父から戦争について体験的なこと、教訓的なことは一切聞いたことがない。話したくなかったことが多かったのだと思う。復員後に、キリスト教に入信するかどうかを真剣に悩んだことだけを、母や叔母から聞いている。



祖父の父親の兄(祖父の叔父)が、ヨーロッパに遊学したらしい。明治初めのヨーロッパ留学は、現在の留学とは意味が違う。例えば、夏目漱石は、ヨーロッパ留学で神経衰弱になった。明治初めのヨーロッパ留学組は、いまの私たちでは、想像のつかない、秘めたみじめさを抱えているものだ。祖父の父親の兄は、帰国後、人生設計がくるってしまったという。



祖父にとってのキリスト教。そして、祖父の父親の兄にとってのヨーロッパ。私は、この点に、近代に生きた日本人の課題を見出す。そもそも、近代日本とは、とりもなおさず、キリスト教との対峙の期間であったと言っていい。


かつて、『日本のアウトサイダー』
を著した河上徹太郎氏は

「ざっと見渡しても、明治の文学者・社会運動家その他文化界一般の代表者の殆ど全部が、一度はキリスト教の門をくぐってあることは、私の今までの列伝を見ても明らかである。」


と述べた。


文芸批評家・新保祐司氏は、『日本の正統』

でこれに付言して、

「キリスト教、あるいはキリスト教とのぶつかりは、近代日本の軸なのである。」


と捉えている。



私が営業を応援している和器出版 http://wakishp.com/
は、2017年に
『神道から観たヘブライ研究三部書―言霊学事始』

を刊行した。


「神道の歴史と原理によって、世界のユダヤ問題を解決し、近代科学文明の上に天津日嗣の高御座を神代ながらに確立する運動」であった第三文明会を主宰した小笠原孝次氏の刺激的な論考が収められている。親猶でも、反猶でもない立場からの文明についての哲学的思考は、国学古代オリエント学のかけはしとなるという壮大な意図を担っていると言ってもいい。


例えば、大祓祝詞の内容が、聖書の律法の内容と照合することで、初めてその内容が明解になることが説かれている。大祓祝詞 大祓詞 - Wikipedia 聖書 聖書 - Wikipediaは、併読し、比較し読むことで、初めてその意味がわかるようだ。


大祓の罪には天津罪と国津罪とがある。天津罪とは天上界の罪であって、形而上の学問上の錯誤のことである。これに対して国津罪とは形而下の関係が犯す罪である。しかるこの関係が犯す罪に関してヱホバ神がモーゼとアロンを通じてイスラエルの民を戒めた個条が聖書に記されてある。




(一)ヱホバ、モーセとアロンに告げて言いたまはく、人その身の皮に腫あるひはできものあるひは光る処あらんに、もしこれがその身の皮にあること癩病の患処のごとくならば、その人を祭司アロンまたは祭司たるアロンの子等に携へいたるべし、 また祭司は肉の皮のその患処を見るべし、その患処の毛、もし白くなり、且その患処身の皮よりも深く見えなば是癩病の患処なり、祭司これを見て汚れたる者となすべし、若しその身の皮の光る処白くありて皮よりも深く見えず、又其毛も白くならずば、祭司その患処ある人を七日の間禁鎖め置き第七日に祭司またこれを見るべし.….…祭司これを観てその皮の腫白くして、その毛も白くなり、旦その腫にただれの見ゆるあらば、是旧き癩病の其の身の皮にあるなれば祭司これを汚れたる者となすべし (利未記一三章)



(二)凡そ汝の歴代の子孫の中身に疵ある者は進みよりてその神ヱホバの食物を捧ぐることを為すべからず……すなはち○者○者および鼻のかけたる者、或余れるところ身にある者、脚の折たる者、○○者、○儒、目に霊膜ある者、 ○る者、○ある者、外腎の壊れたる者は進みよるべからず(利未記二一章)



(三) 汝等凡てその骨肉の親に近づきて之と淫する勿れ、我はヱホバなり、汝の母と淫する勿れ、是汝の父を辱しむればなり、彼は汝の母なれば汝これと淫する勿れ(利未記一八章)



(四)汝獣畜上と交合して之によりて己が身を汚かすこと勿れ、また女たる者は獣畜の前に立ちて之と接する勿れ、是憎むべき事なり(利未記一八章)

男子もし獣畜と交合しなばかならず謀さるべし、汝等またその獣畜を殺すべし、婦人もし獣畜に近づきてこれと交らばその婦人と獣畜を殺すべし、 是等はともに必ず殺さるべし、その血は自己に帰せん(利未記二〇章)



(五)汝等憑鬼者をたのむなかれ、ト○師に問ふことを為して之に身を汚さるる勿れ、我は汝等の神工ホバなり(利未記一九章)

憑鬼者またはト筮師をたのみてこれに従ふ人あらば我わが面をその人にむけ之をその民の中に絶つべし(利未記二〇章)

汝等の中間にその男子女子をして火の中を通らしむる者あるべからず、またト筮する者邪法を行ふ者、禁厭する者魔術を使ふ者、法印を結ぶ者、憑鬼する者、巫覡の業をなす者、死人にとふことをする者あるべからず、凡て是等のことを為す者はヱホバこれを憎みたまう(申命記一八章)



そこでこの大祓祝詞の内容と聖書の律法の内容を比較してみよう。まことに一読にして明瞭である。この両者は全く同一のものである。何人もこの同一を否定することは出来ない。


聖書の(一)の罪は大祓祝詞の白人の罪に当る。


聖書の(二)の罪は大祓祝詞の胡久美の罪に当る。


聖書の(四)の罪は大祓祝詞の畜犯せる罪に当る。


聖書の(五)の罪は大祓祝詞の「まじものせる罪」に当る。


今年も6月30日の「夏越の祓」が近いが、以上のことを知ると大変興味深い。そして、本書の圧巻は以下のような記述にある

★「神の小羊イエス,キリストを殺した最大の悪人として描かれているイスカリオテのユダの魂が救われた時が宗教的表象信仰としてではない、本当の救世主が実際に再臨する時である。」



★「このヘブライ研究会という舞台に投々が集結する目的は、高天原と黄泉国を分担する者が互に対立抗争する為ではない。お互いが胸襟を開き肝胆を吐露し合って理解和合するためである。」



★「高天原に於いても黄泉国に於いてもそれぞれの主宰神霊は既に和合の時が来たことを承知している。」



私は、本書のおかげで、最終的な世紀末の世相を見ながらも、和合の時の到来を感じ取ることができた。そして、祖父が対峙したキリスト教、祖父の父親の兄が対峙したヨーロッパを止揚する手がかりを得られた。


ゴールは見えている。まだまだこれからだ。

読活ぶらり散歩 令和元年5月14日

【図書館】
葛飾区立中央図書館
http://www.lib.city.katsushika.lg.jp/libguide_0001guide.html


【借りた本】
ベストセラー『食品に裏側』の著者・安部司『何を食べたらいいの?』(新潮社)